妙見東中央公園の「妙見山古墳」

妙見東中央公園 改修された石の滑り台
妙見東中央公園 改修された遊具
妙見東中央公園
発掘調査の結果、勾玉1個、ガラス小玉6個、菅玉15個、鉄器(剣残欠3点、刀子3点、やりがんな5点、鉄鏃3点、埴輪片、石英30数個と遺物に付着する朱を発見することができた。(星田歴史風土記)
発掘当時の妙見山古墳
発掘当時の妙見山古墳
発掘調査の風景
妙見山古墳の粘土槨
妙見山古墳の粘土槨周囲の排水溝

妙見山古墳について
昭和41年8月30日 大阪府立四条畷高校2年生 江藤敬直君・山本雅靖君が発見。
妙見神社から東へ峰伝いに行くと古墳らしいものを発見した。
山本君の親類がこの近くにあり、それから何度かこの地を訪れ遺物を拾ったとのこと。
そのころ妙見東住宅地の造成工事が佐藤工業によって行われることを知り、
昭和43年11月1日 二人は交野町教育委員会を訪れ妙見山古墳について発見の経緯を説明した後、職員を現地に案内、その際土師器の破片を確認した。
11月9日 交野町教育委員会は発掘準備のための打ち合わせを行い。
12月19日~23日にかけて発掘調査を行った。
発掘調査作業は、櫻井敬夫(四条畷市教育長)・四条畷高校地歴クラブ・四条畷古文化研究保存会・交野考古学研究会の協力で行った。

発掘調査着手時、妙見山古墳は残念なことに西側は造成工事で削り取られていたが、幸いなことに稜線の北半分が残されていたため、遺構の大略を知ることが出来た。(資料引用先:ふるさと交野を歩く 神の巻 著者:奥野平治 発行者:交野市教育委員会)

 妙見山古墳遺跡は昭和41年8月30日、ハイキングで当地を訪れた四条畷高等学校の生徒によって発見され、交野町教育委員会に連絡。
 交野町教育委員会は連絡を受け調査を開始し古墳の存在を正式に確認しました。発見された当時、既に妙見東住宅地造成工事中で古墳の約半分が取り崩されていたが、調査中に勾玉、ヒスイ、などの装身具、鉄鏃(矢じり)刀などの鉄器類、遺物に付着した朱などが発見されました。
 また工事関係者も古墳であると認識していたようで調査に協力的で、古墳跡地は現在の妙見東中央公園として整備され、古墳跡にはレプリカの古墳が再建されています。古墳形状は円墳で4基あり、周囲を栗石で縁取られています。
 なお妙見東中央公園にレプリカの古墳が再現された経緯については不明です。
 (妙見山古墳の発見から妙見東中央公園建設までの経緯については関係者が70歳代から90歳代ですので、もしかすると詳しい経緯が判るかも知れません)

 妙見山古墳は4世紀中ごろ(古墳時代前期)の造営で交野物部氏の首長を埋葬し祀ったと推定されています。堺市の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)は5世紀中ごろの造営なので100年以上も古い古墳です。

 交野物部氏とは、大阪府交野市に本拠地を置いた氏族で、神武天皇よりも前に天の岩戸から天降った饒速日命(にぎはやひのみこと)を祖先と伝える、天神系の神別氏族です。

 交野物部氏の伝承は、市内各地に残されていて磐船神社は、饒速日命が天降ったと伝わる神社とされ、交野物部氏の氏神として崇敬されています。また哮峰(たけるがみね)は、饒速日命が天降った地と伝わる天孫降臨伝説の山です。市内各地に古墳時代の祭祀遺跡や古墳遺跡が残されています。

 交野物部氏は、交野市の歴史と文化に大きな影響を与えた氏族で、交野市の各地に残る交野物部氏の伝承は、交野市の歴史を知る上で重要な資料となっています。(引用:チャットGPT 他)

古墳の木簡の在った場所で発見された勾玉と首飾り
勾玉と首飾りのパーツ
鉄器:鉄鏃てつぞく(鉄の矢じり)刀子とおす(小刀)鉇やりがんな

写真の引用先:

ふるさと交野を歩く 神の巻 
著者:奥野平治 発行者:交野市教育委員会

北河内の古墳 前・中期古墳を中心に 
著者:櫻井敬夫 他
発行者:㈶交野市文化財事業団